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「何があっても自己原因論」トレーニング

「何があっても自己原因論」トレーニング☆先日、『夢をかなえるためにすべきこと』を記事としてUPし、ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)『ヘルメスの7つの宇宙の法則』が、ここまで垣根低く浸透して来ていることをご紹介させていただきましたが、今回はその中の記事で「なるほどこれは大事だ、いいこと書いてあるな」と思った「コラム3」(P68)について感じたことを少し述べてみたい、自分自身に言い聞かせたい(宣言している)と思います。

それは、【「何があっても自己原因論」トレーニング】というキャッチフレーズが心の琴線に触れたので、それをしばらく自らの「戒」にして学んでみようと思います。

もちろん『正義の法』のP104~107にある「あなたに贈る言葉③」個人の正義の基準としての「六大煩悩の点検」(貪・瞋・癡・慢・擬・悪見)により「正義の基準」として仕事などで実践で使うことは、HSの指導霊(ハイヤーセルフ)から霊流を引くことになり、ドリームサポーターとして、弊社のお客様友人知人に至るまで何らかのお役に立てると思いますので「結界論」(安倍晴明公)と同じように自らの「戒」にして、「正義の基準」をより向上させて、仏神の御心に叶う「判断」ができるように磨きをかけていきたいと思っています。

本題に入りますが、【「何があっても自己原因論」トレーニング】とは、自分の身の回りでよからぬ事が起こった時は、すべては自己責任と受け止める。とにかく一旦は受け止める。受け止めることによって、狭量ではなく少しづつでも器は大きくなっていくでしょうし、【「何があっても自己原因論」トレーニング】という言葉の響きから、冒頭の【思考ポイント】にあるような姿勢で自己原因論で物事を考える、思考の「トレーニングマシーン」(戒)として、心を練り鍛え上げるという意味で使いたいと思います。

たとえば、マイナス感情と言われるもののなかに「かわいそうな私」(自虐・悲劇のヒーロー、ヒロイン)「被害者意識」(人に害されている、誰か他の人のせいで私は酷い目にあっている)というような【自己憐憫】(じこれんびん)の中で、特に怖い、性質(たち)が悪いと思うが次の記述

自分のことに酔ったり、自己賛美するナルシシズムと似た面があります。 自己憐憫も、自己愛も、『自分に酔ってる』も類似の面があります。

違うのは、自己憐憫が「かわいそうに」という方向であるのに対して、自己愛や自分陶酔は「素敵だ」という方向であることです。

自己憐憫も自己愛も、程度が進むと、実態無視・現実無視というかバランスを欠いて、「哀れむ感情を嗜好する」「賛美している気分を嗜好する」ようになります。

まるで道化師のように、こういう人ほど気がつかないものですし、その本人が気づかない限り、自覚できないので反省もないし改善もできない。自然と自らの「潜在意識」にそれを無意識に刷り込んでしまっている。(>_<)

その人が、「それ(自虐)」を求めているように見えるため、周りの人たちが、自然に、その実現に向けて振る舞うのです。その結果、それを引き寄せてしまうわけです。

-中略-

いじめられたら、「やはり、いじめられた。私は駄目なのだ」と思い、自分がそういう人間であることを確認して、“喜んでいる”ようなタイプの人がいるのですが、これは、自分の思いが原因であり、心のコントロールを知らないだけのことなので、努力して心のあり方を変えるようにしてください。(繁栄思考P168~169)

この『“喜んでいる”ようなタイプの人』というのが、自己愛や自分陶酔(自己陶酔)を指し「哀れむ感情を嗜好する」「賛美している気分を嗜好する」ようになっていると思うのです。

もっとはっきりいうと、

運命が私を許してくれないなどと勝手に思い、必要の無い、いきすぎた「自己犠牲」を演じている自分に酔っていて、こんなに悪条件の中で私は本当によくやっていると思い込んでいる状態です。

結果「これだけやったんだから努力を認めてくれ、分かってくれ」と、必ず「言い訳け」をします。これが仕事なら、間違いなく信用を失い相手にされなくなります。

それでは、本来の「悟り」(自分でそういう事態を招き引き寄せていると気づく)からは、ほど遠いような・・・。

結局、こうした人からは「反面教師」として学ぶしかないと思うのですが・・・。

同じ刷り込むなら、「言い訳け」を排して意識的に逆打ちし「プラス感情」を刷り込んで、少しづつでも自己変革していく努力をする方がよいに決まっていますよね。(笑)

 

※「戒」(かい)の補足:仏教の「戒」「定」「慧」の三学に習い、本文中の「戒」(かい)は、主体的に自分で自分に課する「いましめ」の意味で使用しています。「戒」を長年に渡り守り実践すると「戒体」ができあがってくると言われています。

さらに、もっと詳しい『沈黙の仏陀』P86~87には、

「戒」というのは、自主的に守っていくものですが、なぜそれが要請されるかといえば、自主的に自分で守っていこうとする誓いであるからこそ、ここから菩提心、すなわち悟りを求める心が生まれてくるのです。そして、その結果、悟りの境地である涅槃(ねはん)が生まれてくるのです。

すなわち、菩提心から涅槃への道に到るためにはどうしても「自分に対する戒め」という自主性がなければだめなのです。法律のようにすべて規定だけしていればよいということではなく、自分で主体的に守っていくものがあるからこそ、それが菩提心になり、涅槃の道につながっていくのです。

こういう意味で、「戒」は修行者にとって非常に大切なものなのです。

と、述べられていて、「戒」の真意がよくわかり非常に参考になりますね。なかなか難しいことだと思いますが、少しづつでも学んでいきたいものだと思います。

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