大阪屋 たてものブログ

ザ・ヒーリングパワー 6

IMG_0074-2-2☆冒頭の画像は、図解ザ・メタシークレットP83にある【「許すこと」でエネルギーが解放される】図ですが、HSでも「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という名言があって、何らかの宗教的境地を伴う「許し」ということを、

最近、特に「癒し」+「許し」のセットで陰陽師の神々の指導霊から課題やご指導を賜る機会が多く、字面で理解していた「許し」も、恥ずかしながらこの50歳になってようやく少しは実感させていただけるようになりました。

たとえば、「お客様」から不動産案件絡みのトラブルでその対応のご相談を受け、仕事上で「お客様」を護るため、納得のいく合理的な問題解決の道を探しだし、ひとつひとつ手を打っていくのですが、状況に応じて司法書士先生や、弁護士先生の助けを得ながら、法律に基づいて対処することも多くなって来ていて、多くの場合利害関係が生じ、悪行きすると「敵、味方」に分かれて紛争に発展することもあります。

誰しもトラブルにはかかわりたくない、巻き込まれたくないと思いますが、どうしても避けられない場合もあり「身に降りかかる火の粉は、振り払わねばならぬ」といったように職業上の慣れも多少あると思いますが、それでも何らかの目に見えないストレスや緊張はつきもので、それを和らげ解消するための「癒し」+「許し」ということ、そのサポートが、今、実践で強化されてきています。

 

7つの習慣でいうと第五の習慣「理解してから理解される」のところで、本当の意味での「感情移入」が出来るかできないかで大きな差が出てくると思うのです。

本当の「感情移入」は、心の底から理解するつもりで聞くことであり、まず相手を理解しようと努めることである。これは、全く違うパラダイムなのだ。

感情移入とは、相手の見地に立ち、相手の立場から物事を眺め、相手が見ている世界を見ることであり、相手のパラダイムを理解し、相手の気持ちを感じとることなのだ。(P356)

つまり、自己認識の狭い範疇ではあるものの上記の事例のような「敵、味方」の配役のすべてのキャストの立場に立てて、各自の思いや考えの「認識」具合もある程度理解できるならば、その局面を鳥瞰し、自分自身をひとつの駒として将棋のように次の一手(妙手)を指せるようになるのではないかと、そうした可能性が出てくるのではないかと、小さな希望がわいてくるんですね。

実用的には、仕事の区切りのいいところや、何らかの節目の時には、反省や穢れ落としをして、自らを癒し、許しを与えることになるのだと思いますが、

相手のことを本当に理解できれば「許す」ことができる、自も他も「許す」ことができる、冒頭の【「許すこと」でエネルギーが解放される】図のようなステップを、たどってみるのも非常に有効じゃないかと思います。

また、単に自分の限界、頭打ちで、逃避で「諦める」ことを持って「許す」と言っているのではないということがよく分かると思います。

 

私の大好きな「沈黙の仏陀」という経典ではP173~190「識と般若」のところでしょうかね。

識の立場でいけば、「この人は善人、この人は悪人」というのが、はっきり分かれてきます。ですから、みなさんも、「あなたは善人です」「あなたは悪人です」と、パッパッと分けられてしまいます。これは識の立場です。

ところが般若の立場でいけば、そうはならなくなってくるのです。「人間には善人や悪人があるというけれども、その悪人と言われる人のなかにも善なるものはあるし、かって悪人と言われた人でも、今は善人になっている人もいる。また、将来は善人になる人もいる。一方、今は善人と言われている人でも、そのなかに偽善や悪の部分もやはり含んでいるものなのだ。そういう悪の部分は、人間はみんな持っていて、また悪人になっていくことだってありうるのだ」。このように般若の立場になると、善悪不二の立場で見ることができるようになってくるのです。

これを聞くと、愛の発展段階説の「許す愛」というのが、少し見えてくるでしょう。六次元の「生かす愛」は、やはり識の立場に近いのです。分析していく、区別していくという、上下観、差別感が強いのです。ところが、般若の立場になると、平等観が強くなってきます。逆に、すべてのもの、生きとし生けるものが平等に見えてくる、すべてが仏の命に見えてくる、そうした平等観が強くなるのが般若なのです。

つまり、この般若の智慧を得ないと、「許す愛」という境地はなかなか出て来ないということです。善悪不二の立場---すべてのもののなかに素晴らしいものを見ていく目というのが、般若の目なのです。

したがって、この般若の智慧を得ていくと、「許す愛」というのが当たり前になってきます。どのような人も、実は神仏の子として、使命を持って、いま苦労して修行をして、がんばっているという姿が見えてくるのです。そのような平等観が非常に強くなってきます。それも、機械的な平等観ではなくて、智慧に裏付けられた平等観です。人間はみんな素晴らしく生きているように、輝いているように、見えてくるのです。これが般若の立場です。(P179~181)

 

今、そういうところを学ばせていただいている感じが強くいたします。

 

本当にありがたい限りです。

 

つづく。(少し、脱線ぎみですが、今回は素直な今の実感を書きだしてみました)

 

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