大阪屋 たてものブログ

ザ・ヒーリングパワー 5

R0019583-2☆本日、8月17日ようやく午後になって仕事が片付いて落ち着いてきましたので、今回の一連の記事をまとめていきたいと思います。

昨日、お盆休みの最終日(8月16日)は親戚のいとこのお兄さん(天理教の教会長)の故4代会長M婦人の十年祭に出席させていただきました。

子供の頃は母親に連れられて、(何も意味が分からず)この天理教の教会によく行かせていただき、いろんな方に可愛がっていただきましたが、はじめてお会いした故4代会長M婦人も、とてもフレンドリーな方で、いきなり「お好み焼き」にマヨネーズ入れるの知ってるか?とっても美味しいねんで、おねえさんが作ってあげるので食べていってと言って、マヨネーズを入の「お好み焼き」をお昼ごはんに作って食べさせていただいた記憶(第一印象)があります。

その当時は一般家庭で「お好み焼き」にマヨネーズを入れる習慣はなかった時で、おそらくお好み焼き専門店、大阪「ぼてぢじゅう」等で、お好みソースにマヨネーズやからしを入れるのがハイカラだった時ですから、子供心にとても印象に残っていて、そうしたことを思い出しながら「ありがたかったなぁ~」と十年祭の式典(神事)に参加させていただきました。

いとこのお兄さんのお話では、故4代会長M婦人と結婚の決意が難しいくらいの病弱でいらしたらしく、4年お付き合いしてようやく結婚、それでも、ご子息様が2名、ご息女様3名の子宝に恵まれ、そのご家族様も全員この十年祭の式典(神事)に来られていましたので、結果は全てを物語っています。

もうすでにご子息様、ご息女様の時代です。内輪の細かいことはあるかも知れませんが、この繁栄の姿をあの世から御覧になられて故4代会長M婦人はとてもよろこんでいらっしゃるものと思います。やはり、信仰心の素晴らしさをご子息様、ご息女様そのご家族様は、すべてキッチリ受け継いでいらっしゃることを強く実感、学ばせていただきました。皆様の益々の発展繁栄を、心よりお祈りいたします。

いとこのお兄さんには、以前「天理教開祖 中山みきの霊言」を献本させていただいたこともあり、こうした神仕組みが連綿と続いていること、真理の話がざっくばらんに普通にできるようになったことがとてもありがたく思っています。

そして、十年祭の式典(神事)の導師、いつも元気な上級の天理教の教会長さんとも何十年ぶりかでお会いしお話を伺うと、「数年前に大腸癌になり手術しまして・・・」と仰って、やはり、お医者様が怪訝そうになる(笑)くらい、病の方が逃げ出すくらいの光明思想で、その出来事をお話され、ご加護があるから日頃行かない病院に導かれた、病状もほとんどなく簡単に癌を摘出できた。人間は神の子、仏の子で生き通しの命(転生輪廻)が与えられていること、ここの教会は四代も連綿と続いていること、因縁(因縁果報=因果応報)のことなど、いろいろお話を教えていただきとても勉強になりました。ありがとうございました。

 

まえおきが少し長くなりました(苦笑)が、今回は

『考え方の基本軸』
①「あの世」と「この世」についての最小限の悟りを持つ
②病気を「自分に与えられた課題」と捉える
③病気であっても、思いをプラスの方向に向ける努力を
④「エル・カンターレ信仰」を持ち、お任せする気持ちになる
⑤人生が好転する「明るいビジョン」を描く

①「あの世」と「この世」についての最小限の悟りを持つ をもう少し詳しく学んでおきたい、まえおきの天理教の上級教会長さんのお話にありました因縁(因縁果報=因果応報)のことを含めて考えてみたいと思いましたので、今回は「復活の法」第四章 因果応報から一部抜粋で書き出して、少しづつ学びたいと思います。

 

心の指針122 転生輪廻の不思議

 

人間には「前世・現世・来世」がある。(P210)

 

この世だけを取ってみると、必ずしも「原因・結果の法則」のとおりになっていないこともあるため、仏教は、この考え方を三世の因果まで広げ、「前世・現世・来世」という三世にわたる「因果の理法」について説きます。(P212)

 

仏教では、「それを今世の原因だけで考える事は難しい。前世、過去世にも必ず原因がある。過去世の宿題を背負って、今回、生まれてきている。その部分も計算に入れなくてはいけない。生まれてからのことを今世だけで考えると、あまりにも不公平や不平等に思えて、天を恨み、神を怨み、仏を呪いたくなるようなことだってあるだろう。しかし、人生は今世限りではない。そう考えた時に初めて、前世からの宿題、持って生まれた宿題の大きさが、それぞれ、人によって違うことを知ることができる」と考えます。仏教は、このようにして、因果の理法を組み立てていくのです。(P213)

 

昔は、キリスト教にも、そういう霊的なものをもっと肯定する一派があったのですが、そのほとんどが、異端裁判により、悪魔の教えとして弾圧されてしまいました。霊的な考え方をキリスト教に根づかせようとして、高級霊が地上に生まれてきても、いつも死刑になってしまうため、根づかなかったのです。(P219~220)

 

結局、「仏教の説いていた三世の因果は昔話やたとえ話ではなかった」ということです。今後、「それは、子供を脅すために親や先生が作った作り話や空想ではなかった」ということが明らかになっていくでしょう。現実にそういうことがあるのです。来世について探求している人もいますが、釈尊は、「前世・現世・来世という流れで見る」ということを二千五百年以上も昔に、はっきりと言っていたのですから、「真理というものは、時代にかかわりなく現れるものであり、最近のものであれば正しいと限らない」ということが分かります。

三世の因果という簡単な真理であっても、現代においては、それを覆い隠す考えのほうが主流であるため、現代人は、魂の領域について分からなくなっています。したがって、現代の人々は、賢くなったようでもあり、愚かになったようでもあり、何とも言えない状況が続いているのです。

ただ、結論は一つです。やはり、三世の因果というものはあります。小さくは、今世のみで、「善いことをすると善い結果が来て、悪いことをすると悪い結果が来る」という、原因・結果の法則が働きますが、それだけで説明しつくせない場合には、過去世の問題が出て来ますし、今世で報いが完結し尽くせない場合には、その報いが来世で必ず完結します。これは仏教の基本的な思想であり、私がこれまで調べてきたかぎりでは、まず間違いなく、現実にもそうなっているということができます。

三世の因果が現実に成り立つためには、肉体を離れた自分というものが、どこかになければなりません。過去世の自分は、今の肉体の自分ではなく、また、来世の自分も、いまの自分の肉体と同じものではないので、肉体を離れた自己認識というものが、どこかになければならないのです。

そして、自分のカルマ(業)、魂の傾向性には、肉体に宿ったために盲目となり、霊的な意味が分からないまま、あることを反復して行ったり思ったりして形成してきたものが多いと言えます。

走っている電車は、急に止まろうとして運転手がブレーキをかけても、慣性の法則というものが働いているため、急には止まれません。それと同じように、ある人が、十数年の人生において、一定の傾向を持ち、繰り返し何かをしているときには、その傾向自体は、すぐにはなくならないのです。必ず、あとあとへと尾を引くことになります。(P221~224)

 

「過去世でのことについては、今世では手が及ばないが、今世でのことは、少なくとも来世につながることは確実である。今世を生きていく過程において、悪い種子を心の中にまかないようにしよう。悪い種子をまけば、生きているあいだにも、それは育ってくるが、死んだあとであっても、それがなくなることはないのだ。魂の傾向性として宿題が残り、来世では天界以外の所に行くことになる。さらに、来来世という、その先の生まれ変わり、もう一回先の生まれ変わりにおいても、その宿題を持って生まれることになる。

今世の何十年かの人 生でつくった、魂の強い傾向性、カルマというものは、来世以降も、かなり持ち越すので、そういう宿題を残さないようにしよう。宿題を残さないようにするに は、どうすればよいか。まず、まく種に気をつけ、悪い種をまかないようにしよう。悪い種をまいてしまったら、次は、それが育たないように努力しよう。それが育ってしまったときは、今世において刈り取れるものなら、それを刈り取ってしまおう」このように釈尊は説いたのです。(P232~233)

 

カルマというものには、ある意味で、お金と同じようなところがあります。お金は、借りたら返さなくてはいけませんし、貯金をすれば、自分で使える範囲が広くなりますが、カルマは、これに似たところがあるのです。

すなわち、「人間は、今世生きているあいだに、いろいろなところから、“借金”をして生きている。今世のうちに返さなければ、その借金は来世に持ち越すことになって、来世で必ず返さなくてはいけなくなる。したがって、なるべく今世のうちに借金を返し、貯金に変えておいたほうがよい」ということを仏法は勧めているわけです。

人間は誰しも、自由に生きているつもりでいるのですが、高貴な使命や倫理観を伴った自由、要するに、責任をともなう自由を行使した者は、霊的には、貯金を積みながら生きていることになります。

一方、同じ自由であっても、責任を伴わない自由を、堕落の自由、他の人を害したり堕落させたり、みずからも堕落したりするような自由を行使して生きたならば、それは、霊的には借金にまみれた生活をし、借金を背負っていることと同じなのです。ところが、そういう借金を自分が背負っていることに気づかない人が大勢いるのです。(P237~239)

 

「地獄に堕ちる」ということは、「この世での数十年から百年のあいだの人生に、霊的な意味において借金があった」ということです。要するに、「多くの恩を受けていたわりには、お返しができない人生であった。借金を持ち越した人生であった」ということです。それでは「どうして借金をつくったのか」ということですが、その借金の原因のほとんどは、魂ではなく肉体のほうを真なる自分だと思って生きた場合に生じます。魂のほうを真なる自分だと思って生きている人には、借金は生まれにくいのです。

「肉体のほうこそ主人公だ。心は、脳の神経系統でパチパチと火花が散っているようなものであって、神経の作用にすぎないのだ」としか思っていない人が大勢います。そういう人は、「死ねば終わりだ」と思っていて、死後のことを何も考えていないのですが、実際には、死ねば終わりではないわけです。 こんな簡単な価値観において、どちらの側に立つかが非常に大きな問題なのです。この立場が違えば、完全に逆の発想になって、借金と貯金が入れ替わるのです。(P241~242)

 

【地獄の一例】

現実に人を殺したわけではなくても、闘争性の強い心を持って生きた人、闘争中心の人生観をもって生きた人も、この地獄(「阿修羅界」「阿修羅道」)に行きやすいと言えます。たとえば、激しい組合闘争を延々とやって他人に迷惑をかけた人たちも、そういう世界に行っていますし、「仏法は闘争である」といっている、ある宗教の人たちも、そういう世界に行きやすいのです。(P255~256)

 

心は自由自在です。しかし、将棋には名人にも素人にも共通のルールがあるように、心に関してもルール自体はあります。「こういう心を反復して長く継続した場合には、あなたは、こういうタイプの霊体になって、こういう世界に行きます」というルールは明らかにあるのです。悪いことをしても、反省によって修正が入れば、その悪を消し込むことができます。ただ、反省は、なかなか、できるものではありません。傾向性として、ベッタリ付いてしまったものは、剥げない仮面のようなものであり、そう簡単に取れるものではないのです。自分を客観視して反省ができ、それを取れる人はそうとう立派です。なかなか、そうすることができないのです。(P270~271)

 

「食・性・眠」はこの世の三大欲望であり、肉体のあるうちは、消すことができませんが、肉体を失ったときには、本来、全部なくなるものなので、その欲望が死後も延々と続くようであれば、「その霊は、霊と肉体の主従が引っ繰り返っているか、『肉体しかない』と考えている」と見てよいでしょう。この世に生きている以上、欲望そのものを完全に死滅させることは難しいのですが、霊的な観点を主にして、欲望をよく調教していくことが大事です。欲望をよく調教できていれば、来世に還って、この世的な属性を脱ぎ去ることが、比較的早くなるのです。(P276~277)

 

知らずに犯す罪の大きさ、その苦しみの大きさを知ってください。それを知って、生きているうちに、一冊でもよいので、私の著書を読んでいただきたいのです。それはビデオやCD、カセットテープなどであってもかまいません。そういう縁が少しでもあれば、来世地獄に堕ちたときに、それは地獄から上がるためのロープになります。それをつかんでいただきたいと思います。(P280)

 

なるほど、仏教的には「因果応報」の意味が三世、前世、現世、来世にまたがる「原因結果の法則」だったんですね。再認識させていただきました。三世にわたる「因果の理法」で考えることができると、今世の目先の事だけにとらわれす、視野も広がり心に余裕も出てきて、「真理知識」に基づいて物事を冷静に考える事ができるので、心が軽くなり病気も治り易くなるということですね。

つづく。(なかなかまとめるところまでいきませんが、今週はどうでしょう厳しい感じですが、時間がとれしだい次にかかりたいと思います。)

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