大阪屋 たてものブログ

自由の死とは? (ハイエク先生)

「未来創造の経済学」ハイエク先生の公開霊言を読ませていただいて、とむすけが心惹かれたところを抜粋し、記憶に残しておこうという趣旨で、記事にしたいと思います。(時間をみつけて抜粋していこうと思います。) 

 P20 自由の死とは?

 

 私たち、特に私が申し上げているのは、「自由の哲学」ですし、「自由の経済学」ですから、流れとしては、もちろん、アダム・スミス以来の流れを引いています。

 しかし、この「自由の哲学」は、ある意味で、「レッセフェーール」、すなわち、「自由放任」に見えるので、知識人や理論家からは不人気なところがあったわけです。

 

 エリートたちには、「優秀な自分たちが考えた計画でもって経済を軌道に乗せれば、うまくいく」という考えがあり、彼らは、どうしても、そちらに向かっていきます。

 「現実に、ナチスが、それに短期間で成功した」という実例があったために、私は、一時期、ある意味で干されていた状態であったわけですけれども、戦後、見直されるようになりました。

 しばらく私は冷遇されて、ケインズ経済学万能時代が続きましたが、そのあと、戦後になってから、ようやく見直され始めました。

 そして、だいぶ遅れましたけども、レーガンやサッチャー時代あたりから、「ハイエクのほうが、やはり正しかったのではないか」と言われるようになってきたわけです。

 それにもかかわらず、日本は、ケインズ経済学をずっと引きずっていて、それが、一九九〇年以降の、なかなか進歩しきれないる現状をつくり出していると思うんですね。

 どうしても、「計画経済」と「大きな政府」の考え方から抜け出られないし、その行く先が重税国家であり、それが、「自由の抑圧」や「自由の死」であることを分かっているのに、人々は、吸い込まれるようにして、そのなかに、はまっていきます。そういう罠にはまっていくんですね。

 人々の目の前には、みなを喜ばせるようなものが並べれています。

 軒先に誰もが喜ぶようなものを並べられ、「民主主義という名の衆愚政」で操られていくんですね。

 そして、「頭の良い」と称する、一部の理論的エリートたちが何でもやってくれるので、「任せておけば間違いない」と考えて、全部、依存するかたちになってしまうわけです。 

 

 ここで私がいいたいことは、こういうことなのです。

 世界は、ますます拡大しつつあり、複雑化の様相をさらに深めています。
 このなかにおいて、「ある一つの主義や教条、思想でもって、すべてを解決できる」というようなことはありません。そんな魔法は効かないのです。 

 また、「ある一人の経済学者や政治家の頭脳でもって、すべての問題を処理できる」というようなことはありえない。 政治家のみならず、官僚でも同じです。一部のエリート官僚の頭脳によって諸問題を解決できるレベルには限界があります。

 

 「現代は、その限界を超えた時代に入っている」という基本的な認識が必要です。今、「認識」ということばを使いましたけれども、「人間の理解力や物事を受け止める能力には限界がある」ということです。

 

 アダム・スミスの経済学は、その限界を認めた経済学です。だから、その限界を知り、原点に帰ろうとすると、アダム・スミスに戻っていくんですね。

 アダム・スミスが言ったことも、結局のところ、「一人の考えで、国全体の経済をうまくいくようにすることなど、できないのだ」ということです。業種がそれぞれ違うなかで、全部の業種を指導できるような経済原理などありはしません。そういう理論もなければ、そういう政策もありはしないんですね。

 だから、「各人が、それぞれの持ち場で最善の努力をするほうが、結果的には全人類の前進になる」ということです。

 そうであるならば、国民にとって大事なことは何であるかというと、「自由の死を最も恐れなければならない」ということです。

 

 「自らが自らの手を縛り、お上あるいは一部の特権エリートに、その身を任せてしまう」ということは、「自由の死」を意味します。

 そして、それが、良い結果になるならばいいのですが、残念ながら、世界の歴史を見る限り、私の預言どおりに、自由の死が来ると同時に、必ず全体主義国家が表れるのです。 全体主義国家は、基本的に、自由を抑圧する国家です。

 国民の自由を抑圧し、統制して、国家がつくりだした一定の方向や規範にすべて従わせようとする傾向が出てきます。 その結果、自由を取りあげられた国民たちは、それを取り戻すことができなくなっていくわけです。  

 

URL :
TRACKBACK URL :

*
*
* (公開されません)

大阪 阿倍野 大阪屋 不動産
Return Top