☆最近、本当に『諸行無常』を強く感じます。それはおそらく、自分の年齢(53歳)が、年齢相応の立場的に、そう感じさせていることもあると思いますし、また、一段と流動的な世の中になってきて、物事を恒常的に維持しにくくなっている。変転流転せざるを得ない。止まっていられない。ということもあると思います。
たとえば、たった2年前に撮った「GRⅡのクロップ」の、お寿司屋さんがすでに無くなっていました。また「豊崎7丁目10」の構造物も取り壊されていました。
あの時にひととき、熱心に、スナップ撮影を楽しませていただいた被写体そのものが、「えっ、いつの間に!」といったように、すでに無くなって、何とも言えない移ろいゆく様に「無常感」を味わうことも多くなって来ました。
本当に撮影の機会も一期一会です。まるでそれが夢、幻であったかのような、遠い遠い昔の出来事のように感じます。
仏教では、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が三法印の旗頭といわれており、そのひとつめを強く実感する、フォーカスすることも、また、大事なことなのかも知れませんね。
「釈迦の説いた諸行無常の思想には実在の世界を知った人間の不動の視点がある」と見なければなりません。
諸行無常というのは、地上世界において変転していく姿だけを言っているのではないのです。あくまでも実在世界の眼でもって、地上の人間の変転してやまない栄枯盛衰を言っているのです。
「変わりゆく世界のなかにあって変わらないもの、それをつかみきった人間こそが、世界のほんとうの意味をつかむことができる。諸々の行いは、やがて無常にも流れ去っていくものであるが、川のごとく流れていく人類の歴史、人びとの営みのなかで、変わらざるもの、変わることのない視点をつかんだ人間こそが、世の流れの虚しさを知ることができる」
つまり、諸行無常というのは、厭世的な思いだけを言っているのではなく、実在界の視点という立脚点を持った人間の眼で見た、社会の姿なのです。(釈迦の本心P169~170)
あの世の実在世界から見た、この世の三次元物質界(地上界)の人間の変転してやまない栄枯盛衰を「諸行無常」ということを、再定義し直し、この機会に、あの世の実在界からの視点でもの事を観る。
そういう「観念」をしっかり持った上で、この膨大なる教え、法体系を有り難く、しっかりと学び続けたいと思います。
アルファよ、エローヒムよ、主よ、エル・カンターレよ。ご指導を賜り、誠にありがとうございます。心より感謝いたします。
何らかのご参考に、よい刺激に少しでもなれば幸いです。
今回もご覧いただきまして本当にありがとうございます。心より感謝いたします。