☆この一年間を通じての、反省というかまとめを職業レベル(正業)で考えたことで、1番印象に残っていることを、書き残しておこうと思います。
それは、「『メタトロンの悲しみ』を聴いて」と、言う記事を以前に書いたのですが、ここで言われる「神の自己犠牲」とは何か?という内なる疑問、問いかけに対して、インスピレーションという形で、私でも分かるような事例として挙げて頂いたことなのですが、
具体的に長編TVドラマであった「白い巨塔」を挙げて、さらにその配役の内科医の「里見侑二」(江口洋介さん)が、自らのこの世的な出世には全く関心無く、
外科医の「財前五郎」(唐沢寿明さん)が、医療ミスをしたとする告発をするという形で、裁判での自らの証言が、浪速医科大学の内科医という要職を捨ててしまって、民間で弱小な千成病院の内科医長として転職することを余儀なくされ、
自らの家族を犠牲にしてまで、末期癌患者を最期まで看取る、心からの緩和ケアを充実、実現させようとする、道徳観、倫理観に基づく「愛」を「神の自己犠牲」である。と、重大なヒントを賜わった感じがして、少しは「愛」について考えるようになりました。
私的にはどちらかというと、仏教的精神の方が理解し易く、キリスト教的な「愛」については深く考えたことが正直無かったのですが、まず、HSの楽曲の「メタトロンの悲しみ」によって「愛」について考える機縁を確かに賜りました。
ですから、少しくらいHSの楽曲についても、HSの映画に続いて、かなりの肯定派の私ではありますけれど、これらすべて真実で嘘は一切ありません。疑いようのない事実を、どうかご理解下さいませ…。
これからも、ゆっくりじっくり、その時々に与えられた課題に取り組み、ひとつひとつ検証しながら、一歩一歩進んで行きたいと思っています。
そうなってくれば、私のような街の不動産屋でどのような「愛」を発揮すれば、ジョン・レノンさんを代表とする、宇宙魂のメタトロン様を含め、宗教的には、愛の大家と呼ばれるイエス様系の御心に叶うように、それが許されるものなのか、少しでもそうなりたい、近づきたい!と、思うようにもなって来ました。
HSでは、最初から「与える愛」が「愛」であって、現代人が大きく誤解しているという、人から優しくされたり、人から愛を与えてもらうことが愛と思っている人が大半で、それは「奪う愛」じゃないのか?ということですが、やはり、「与える愛」が「無償の愛」が、本当の愛であるということなんですよね…。
経典「真理学要論」を少し紐解くとすると、
「進歩の方向においては、人を愛するということによって、その人を限りなく押し上げていく力としての愛があります。愛されたら、期待されたら、希望を与えられたら、人は奮い立ちます。さらに伸びていかんとします。当然のことです。そういう愛は進歩につながっていくはずです。」(真理学要論 P45 5行目~)
「そして調和の方向において、もう一つの愛があります。それは、今、停滞し挫折している人間を、その人を、命綱で結び、錨に結ぶ、そういう行為です。宇宙空間のなかで、母船から離れて漂っている人をロープで結びつける、そういう行為としての愛があるのです。」 (真理学要論 P45 9行目~)
「それは別な言葉で言うならば、悲しみに打たれ、苦しみの底に沈んでいる人を慰め、暖かく包むための愛と言ってもよいでしょう。この愛も不足しています。多く不足しています。これを必要とする人が多くいるのです。傷ついた人も、また立ち直ることができるでしょう。それを信ずるということが、この愛であるのです。傷ついた小鳥も、やがて羽が元どおりに治ったならば、遠い旅に飛び立っていくことが可能となります。」 (真理学要論 P45 13行目~)
「この調和の方向での愛は、個が個と、個性が個性と、鎬(しのぎ)を削り、進歩を目指すときに起きる歪(ひずみ)を埋め合わせていくためのものなのです。」 (真理学要論 P46 6行目~)
このあたりを読むと、進歩の方向の「愛」と調和の方向の「愛」があり、調和の方向の「愛」が、救済の「愛」であろうと思われます。「神の自己犠牲」に近づいていくための「愛」(具体的な行動)が、それに相当するのだろうと思います。
芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」と形容される救済の糸のことと同じですよね!
また、霊言説法「信仰薄き者たちへ」の経典で述べられていることも、また、調和の方の愛で、救済の糸でもあり、信仰の「試し」がいかなるものなのか、その詳細をとても分かり易く簡素に明らかにして下さっていて、まさに「愛」そのものであると、言わざるを得ないですよね…。有難い限りです。
―中略― なにゆえに愛するかの「なにゆえ」がなくなったときに、ここにあなたは執着を去ったことになります。執着を去り、自由自在の仏の境地が現れることになるのです。(真理学要論 P60 2行目~)
詳細は、この周辺箇所を読み込み、読解していただければ分かると思いますが、「なにゆえ」の条件付けが無い「愛」こそが、期待されるものであろうと思われるのです。
また、「愛」が「与える愛」ならば、知恵を持って「愛」を与えないといけなくなるはずですので、現代の四正道の「愛」「知」と続いて行くものだとも言えると思うのです。そうしたことが、この真理学要論では詳細説明されていると言えると思います。
最後に、長編TVドラマ「白い巨塔」の里見侑二(江口洋介さん)から見る「神の自己犠牲」を、心から支え続ける「愛」を、このドラマの配役から正見、正思で考えて見ると、
確かに里見侑二の奥様(水野真紀さん)の里見三知代は善良ないい人であるのですが、里見侑二の高い志に共感し、普通について行くのは難しく、しぶしぶ何とかという感じになっていて、役不足の感は否めない感じです。
里見三知代は、夫に対する東佐枝子の思いに気が付いていて、警戒してしており、密かに里見侑二 に心を寄せている、東貞蔵教授の娘さんの東佐枝子(矢田亜希子さん)が、どう見ても本当の心からの理解者であって、里見侑二に本心から、心に寄り添っているな!と感じました。
こういう知人関係であっても、世間のスピリチュアル界隈では「ツインレイ」と呼んでいるものでは無いのかな?と思いました。
この「ツインレイ」という概念もyoutubeで検索をかけると、すでに沢山動画が出尽くしているようで、初期に登場した頃と比べてその内容が濃くなって、かなりハードルが上がっており、すでに恋愛的な夢やロマンを通り越して、一般的には理解不能な領域になって来て、三次元地上での「使命と役割」そのものとなって来ている。と、思います。
さらに、目を凝らして正見、正思でよく観察すると、
財前五郎に対しても、奥さんの財前杏子では無く、愛人の藤森ケイ子がそれで、里見侑二に対して、知人の東佐枝子が、ツインレイに当たっていて、お互いに密接な補完関係であるということです。幾分、里見侑二の方が女心に疎い感じですが…。
この「ツインレイ」を、たとえば、HSでいうと、支部長さんの要職を支える奥様であるとするとか、ご夫婦で支部長さんをしているとか、使命と役割の共有がなされていて、主の「愛」で結びついていて、マスターマインドというか、一体となって協力し合っている状態では無いか?とも思うので、今後はそうしたところも正見、正思でもって、参考にして行きたいと感じています。
今回もご覧いただきまして、本当にありがとうございます。心より感謝いたします。