まず、「与える愛」から始めていきなさい。日々の努力目標を、まず、与える愛に置きなさい。あなたは人々に対して、社会に対して、いったいいかなる愛を与えることができるのでしょうか。
愛とは恵みです。それも、善き恵みであり、他人を生かしていこうとする力です。縁あって人生の途上で出会った人々に、生きていく勇気を与え、力を与え、希望を与えること、それが愛です。
こうしてみると、愛とは仏の心そのものであることに気づきます。仏の心とは、万象万物を生かし、はぐくみ、調和せんとする心です。すべてを成長させんとする念いです。
「与える愛から始めていこう」と決意したとき、その心は、仏の心と同質の光を帯びているのです。他を生かさんとする心の芽生えは、すでに仏の子として慈悲心が生じてきたということなのです。
愛の中にも、「奪う愛」という名の執着の愛もあれば、「与える愛」という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。
相手を奪い取り、相手の心をがんじがらめにするための、トリモチのような愛は、与える愛とは言わないのです。金銭や物品を幾ら湯水のごとく注ぎ込んだところで、それが相手をとりこにし、かごのなかの鳥にする目的をもってなされたものであるならば、それは、与える愛ではなく奪う愛であり、執着の愛なのです。
ほんとうの愛は、無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。相手を縛るのが愛ではありません。相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。
(信仰の法・明日を与える言葉③P126~129)
この『相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです』の言葉が、あまりにも美しくピカピカ、ピカピカと光って見えるので、こうして記事にさせていただきました。しっかり心読して少しでも身につけさせていただきたいものです。
たとえば「相手を己の支配下においてコントロールしよう」とか、「相手を己の都合良くデゲレーションさせよう」とかも奪う愛でしょうねぇ。
レプ(タリニャン)には多そうな思考形態ですが、さらに、ひとつ何か相手と意見や考えが違えば、己のご都合(それを正義と思い込んで)で生霊(念)悪想念(鬼のパワーを使う)を、相手に分からないように、バレないように飛ばして来る性質が、醜くく、汚らしく、どう猛な爬虫類そのものによく似て、愛と美と調和+発展のプレアデスと、正反対で、敵対している理由が、本当によく分かるようになりましたよ。(笑)
それに対し、プレアデス(それ以外の宇宙人でもあると思うけれど)はアセンション(次元上昇)で、気づき(愛や智慧)を与え続けて下さっていることを、理解するのではなく、皮膚感覚というか、スピリチュアルに『感じ取って』いただけますれば幸いです。よろしくお願いいたします。
HSでも、もう少し時代が下れば、プレアデスやベガが主流になりますよ。
冒頭の写真は、『落合下渡し』の渡船中からの1枚です。
この木津川での渡船は、穢れ落としや生霊(念)悪想念(鬼のパワーを使う)に対しても、サラッと水に流すための、私的な抜群の舞台装置として使えるように、賀茂一族様方の強力なご指導(これは安倍晴明公ではなく)があります。
何らかのよい刺激や、ご参考になるところが少しでもあれば幸いです。
今回もご覧いただきまして、本当にありがとうございます。心より感謝いたします。