やっぱり、「信仰」というのは神とつながる行為なので、「信仰を持っていなければ、奇跡は起きはしない」ということだね。
「奇跡」というのは何のために起きるのかということですけれども、神の愛する人たちを護るために起きるのが、奇跡なんですよね。だから、「神の愛する人たち」とは何であるかというと、「神を愛する人たち」なんですよ。
「神を愛する人たちを神は護りたもう」、これは契約の始まりなんですね。「神と人間との契約」の始まりです。
そのように、「信仰」というのは、「神と人間との契約」の始まりなので、「信仰がない」というのは、「神と契約を結んでいない」ということなんですよ。「神と契約を結んでいない」ということは、自動的に、「悪魔のほうの支配下に入る」ということを意味している。
だから、この地上に生きながら「神と契約を結んでいない」ということは、この地上は“悪魔がちょっかいを出してもいい世界”なので、これは「悪魔の支配下に置かれる可能性が極めて高い」ということですね。「何かのときは、悪魔に支配されても助けられない」ということは起きるわね。
そういう意味で、直接、悪魔と契約を結んだかどうかは別として、事実上、彼らの支配下に入る可能性がある。
信仰がない状態というのは、そういうことになるわけです。だから、災いがたくさん起きたりします。「病気」とか、「突然の死」とか、「没落」とか、さまざまな不幸が起きることが多い。
だけど、この世の不幸を乗り越えて、最終的には、来世で幸福であることを願うことが大事です。そのために、やっぱり、「信仰」というものが要るのだということですね。
だから、「神様を信じておれば、たとえ、この世でどのような“濁流”に呑まれようとも、来世では天上界に引き上げてくださるのだ」ということが、素朴な信仰の形態ですよね。
(オフェアリス神の教えとは何か P92~94から一部抜粋)
特に「信仰の法」の年なので、「信仰」についてあらためて考える機会が多いのですが、「神と契約を結んでいない」ということは、自動的に、「悪魔のほうの支配下に入る」ということを意味している。というところは、とても恐ろしい話ではありますが、疑い深い方、反発の強い方、アンチの方々も、恐らくその範疇に入るのであろうなぁ~。と、いうことを、よくよく実感して来ている今日この頃です。
ギリシャ・エジプトの古代神オシリス(オフェアリス)の『オシリスの秤』(正義の秤)ではかられる基準が「なるほど、納得です!」と明確になったのではないかと思います。また、善良な人々が、知らず知らずのうちに、試しや、篩(ふるい)にかかるというか、共業(ぐうごう)に巻き込まれないように、心から祈るばかりです。
他にも興味深い記述は沢山ありますが、「信仰」のところは1番重要と思い記事にさせていただきました。オフェアリス神よ、主よ、エル・カンターレよ、ご指導、誠にありがとうございます。心より感謝いたします。
何らかのご参考になるところが、少しでもあれば幸いです。
今回もご覧いただきまして本当にありがとうございます。心より感謝いたします。